513.工部美術学校の開設

1876年(明治9年)、工部大学校の附属機関として「工部美術学校」が設置された。西欧文化の移植として当然お雇い外国人が起用されたが、全てイタリア人であった。美術の先進国として認知されていたフランスではなく、ルネサンス美術の中心地であるイタリアから招聘された点が興味深い。画学科をアントニオ・フォンタネージ、彫刻科をヴィンチェンツォ・ラグーザが担当し、また二人と一緒に招聘されたヴィンチェンツォ・カペレッティが装飾図案、用器画を担当した(カペレッティは参謀本部庁舎の設計を手がけるなど工部大学校の建築科にも関わっていたと考えられている)。工部美術学校に入学した生徒は、総数でも60名を超えないと考えられている。

アントニオ・フォンタネージ:1876年官設の工部美術学校の創立に際し,明治政府に招かれ,1878年まで日本で教鞭をとった。わずか2年間の滞在であったが,浅井忠,小山正太郎,松岡寿ら多くの画家を育て,日本の洋画の発展に尽くした。 1879年アルベルティーナ美術学校教授に復職したが,健康を害し4年後に没した。主要作品『徒渉』 (1861) ,『十月の朝』 (1862,ローマ国立近代美術館) ,『嵐の前』 (1874) ,『春の太陽』 (1875~76) ,『サン・マウロのポー河の夕暮』 (1880~81,トリノ市立近代美術館) 。

工部美術学校の送別写真(1878年)フォンタネージ(前列左から3番目の人物)の真後ろが小山正太郎、その向かって右が松岡寿


ヴィンチェンツォ・ラグーザ:工部美術学校で日本で最初に西洋彫刻の技法,すなわち油土 (粘土) によるモデリング (肉づけ) を基本とする塑像を指導し,美術の一分野としての「彫刻」という概念を初めて日本にもたらした。 1882年同校の廃止とともに夫人清原玉を同伴して帰国。パレルモに工芸学校を創立して,その校長を務め,彫刻の指導にあたった。主要作品『日本の婦人』 (東京芸術大学) ,『日本の俳優』 (1881,同) ,『ガリバルディ騎馬像』 (パレルモ,イギリス公園内) など。

日本婦人


ヴィンチェンツォ・カペレッティ:1876年(明治9年)工部美術学校の図学教師として来日し、1879年工部省営繕課に奉職、同年イタリア・ルネッサンス様式の永田町の参謀本部を設計、また1881年にはロマネスク様式の東京九段の遊就館を設計、1885年離日し、サンフランシスコで建築設計事務所を開いた。


浅井 忠:明治6年上京し,箕作秋坪に英学を学ぶが,9年国沢新九郎の彰技堂に入り西洋画研究に転じた。同年創設の工部美術学校に入学,フォンタネージの指導を受け,画学生徒中最もよく師の作風を摂取した。同11年フォンタネージ帰国後同校を中退し,小山正太郎ら同志と十一会を結成し相互研鑽を重ねた。22年,小山,松岡寿らと日本初の洋風美術家団体明治美術会を結成,第1回展に「春畝」(東京国立博物館蔵)を,翌年の第2回展に「収穫」(東京芸大蔵)を発表。これらの作品は明治洋画を代表する秀作とされる。

春畝
東京国立博物館蔵・重要文化財指定

収穫


松岡 寿:1873年川上冬崖の聴香読画館に学び,76年開校の工部美術学校に入り A.フォンタネージの指導を受けた。 78年十一字会を組織,80年イタリアに留学,ローマ美術学校に学ぶ。 88年帰国。初期にはバルビゾン派風の自然主義的な画法を示し,留学後はイタリア官学風の堅実な手法に移った。 89年浅井忠らと明治美術会を結成,92年明治美術学校を設立。さらに東京帝国大学工学部講師,東京美術学校教授,東京高等工芸学校教授,同校長,文展審査員などを歴任。美術教育家,美術行政家としての功績も大きい。主要作品『ローマ,コンスタンティヌス凱旋門』 (1882,東京芸術大学) ,『ベルサリエーレの歩哨』 (86,宮内庁) 。

凱旋門

ベルサリエーレの歩哨


山本 芳翠:***
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