515.日本画の革新

アーネスト・フェノロサ:米国の東洋美術史家。ハーバード大学卒。1878年来日して東大で哲学,経済学を講じたが,かたわら日本美術に興味をもち,日本画の復興を提唱。1884年美術団体〈鑑画会〉を設立,独自の日本美術観を樹立して狩野芳崖,橋本雅邦らに影響を与えた。東京美術学校設立後は美術史教授として岡倉天心とともに新日本美術運動の中心となり,1890年帰米後もボストン美術館東洋美術部主管として日本美術の紹介に尽力。1896年ふたたび来日。主著《東亜美術史綱》。


岡倉 天心:美術行政家・思想家。横浜生。本名は覚三。東大卒後、文部省に入り、美術教育・調査保存にあたる。明治17年フェノロサと鑑画会を結成、新日本画の開拓に努め、美術調査員としてともに渡欧。明治23年東美校校長となり、帝国博物館理事等を兼任、この間美術誌「国華」を創刊。また日本青年絵画協会及びその後身である日本絵画協会を組織した。のち公職を退き、橋本雅邦・横山大観・菱田春草らと日本美術院を結成した。明治37年渡米し、ボストン美術館東洋部長に就任。また文展審査員・国宝保存会委員もつとめ、明治期美術の指導者としてばかりでなく、すぐれた国際感覚のうちに、日本及び東洋の文化の優秀性を内外に訴えた。著に『東洋の理想』『日本の覚醒』『茶の本』等がある。大正2年(1913)歿、50才。


橋本 雅邦:日本画家。江戸生れ,1847年狩野勝川院雅信に入門,勝園雅邦と号し,1854年勝川塾の塾頭となる。1882年,1884年に内国絵画共進会に出品,岡倉天心,フェノロサに認められて東京美術学校創立に際し教授に任ぜられた。1890年第3回内国勧業博覧会に審査官として《白雲紅樹》を出品し,1等妙技賞受賞。1898年天心の美術学校退職と行をともにし,日本美術院の創立に参加,主幹となり,横山大観,菱田春草,下村観山らを指導した。狩野派の伝統的手法による穏やかな写実的作風で,明治初〜中期の和洋折衷的新日本画の一典型となっている。作品は《秋景山水》《瀟湘八景》など。

秋景山水

瀟湘八景


狩野 芳崖:明治初期の日本画家。本名幸太郎。長州豊浦藩の絵師の家に生まれる。上京して狩野勝川に学び,橋本雅邦と並び称された。明治初期の伝統芸術が顧みられなかった時期には生活にも困ったが,フェノロサ,岡倉天心に認められて,日本画革新の運動に参加,東京美術学校の創立に参加したが,開校をみずに没。画風は初期狩野派にさかのぼる北画風の厳格な筆法と,西洋の油絵的な構成と色彩を総合しようとした,代表作《悲母観音》にみられるような折衷的様式。

悲母観音
東京芸術大学蔵、重要文化財

谿間雄飛図
ボストン美術館蔵


横山 大観:日本画家。水戸の生れ。本名秀麿。東京美術学校の第1回生として橋本雅邦・岡倉天心に学び,1896年同校助教授となった。1898年天心の校長辞任に殉じて退職し,日本美術院の創立に参加,菱田春草とともにその中心的存在となった。当時,その新しい画風は朦朧(もうろう)体と酷評を浴びたが,さらに新画風の開拓に努め,1903年春草とインドに旅行,1904年―1905年には天心・春草とともに欧米を遊歴して研鑽(けんさん)に励んだ。1914年下村観山,安田靫彦らと日本美術院を再興し,日本画壇の一大勢力に育てあげた。1943年日本美術報国会会長。その画は,天心の理想主義をくむもので,清新な構図,みずみずしい筆致,豊かな情感によって近代日本画の最高峰となっている。代表作に《生々流転》《瀟湘八景》《夜桜》や多くの富士山の図がある。1937年第1回文化勲章。東京上野の自宅が横山大観記念館となっている。

屈原
1898年 厳島神社蔵

夜桜
大倉集古館蔵


菱田 春草:明治の日本画家。長野県飯田生れ。名は三男治。結城正明に日本画を学び,のち東京美術学校で橋本雅邦に師事。1896年日本絵画協会第1回展で銅賞牌受賞。1898年岡倉天心の校長辞職時に講師を辞任,日本美術院創立に参加,横山大観,下村観山らと美術院の前衛として活躍。描線を用いない新しい画法は朦朧(もうろう)体といわれて悪評を生んだが,光線や空間をとり入れようとする日本画近代化の試みであった。代表作《水鏡》《落葉》《黒き猫》など。

水鏡
東京藝術大学大学美術館

黒き猫
永青文庫(熊本県立美術館寄託)


下村 観山:明治から昭和にかけての日本画家。和歌山市生まれ。下村豊次郎,寿々の3男。本名晴三郎。狩野芳崖,橋本雅邦に師事。明治23(1890)年,すでに観山を名乗る。27年に東京美術学校(東京芸大)を卒業し,同時に同校助教授となるが,31年の同校騒動により,同志と連袂辞職し日本美術院創設に加わる。苦難の五浦時代を経て大正3(1914)年,横山大観らと日本美術院を再興し,主導的役割を果たす。代表作に「木の間の秋」(1907,東京国立近代美術館蔵),「弱法師」(1915,東京国立博物館蔵)などがあり,6年に帝室技芸員となる。8年に帝国美術院会員に推挙されるが,大観と共に辞退し,在野を貫く。やまと絵,琳派,宋元画の手法を究め,その卓抜した筆技は近代日本画家中屈指といえる。

木の間の秋
東京国立近代美術館 重要文化財

弱法師
東京国立博物館 重要文化財


川村 清雄:洋画家。文久1 (1861) 年大坂で田能村直入に日本画を習い,次いで江戸に帰って川上冬崖らに油絵を学んだ。明治4 (1871) 年法律の勉強のため渡米したが,のち画家になる決心を固め,フランスを経てイタリアに行き,1875年ベネチアの美術学校に入学,百武兼行を知る。 1881年帰国,画塾を開くとともに 1889年,明治美術会の創立に参加し会員となる。同会解散後は太平洋画会に加わらず,1902年トモエ会を結成。主要作品『少女像』 (1877頃,東京文化財研究所) ,『虫干図』 (東京国立博物館) 。

少女像
東京文化財研究所

虫干図


原田 直次郎:明治の洋画家。文久(ぶんきゅう)3年8月30日江戸小石川に岡山藩士の子として生まれる。大阪開成学校に入学してフランス語を学んだのち、1873年(明治6)上京する。81年外国語学校を卒業するが、在学中、山岡正章(せいしょう)に洋画を学ぶ。ついで高橋由一(ゆいち)に師事したのち、84~87年ドイツに留学し、ミュンヘン美術学校でガブリエル・マックスについて写実技法と歴史画を学び、『ドイツの少女』『靴屋の阿爺(おやじ)』『風景』などを制作。また留学中に森鴎外(おうがい)との親交が始まる。帰国の翌年、東京本郷に画塾鍾美(しょうび)館を開いて後進の指導にあたるほか、89年同志たちと明治美術会を創立する。翌年第3回内国勧業博覧会の審査官となるほか、シカゴ万国博覧会のための鑑査官などを務めた。帰国後は東洋主義的な構想画を志して『騎竜観音(きりゅうかんのん)』ほかを発表、美術界の論議の的となった。

靴屋の阿爺
東京芸術大学

騎竜観音
東京国立近代美術館寄託