516.洋画の本格化

黒田 清輝:洋画家。本名は〈きよてる〉と読む。鹿児島生れ。1884年法律研究のためパリに留学したが,絵画を志してR.コランに師事。1893年外光派を学んで帰国し,久米桂一郎と天真道場を開設,1896年白馬会を創立,さらに1898年東京美術学校教授となり,外光派を明治洋画壇の主流にのし上げた。再渡欧後1907年文展創設に際し審査員に推され,1922年帝国美術院第2代院長に就任。晩年は貴族院議員として外国との文化交流に尽くした。没後,遺志により黒田記念館(現,東京国立文化財研究所)が設置され,東西美術の研究が進められた。主作品にパリのサロンに入選した《読書》のほか《湖畔》《昔語り》《朝妝(ちょうしょう)》などがある。

朝妝
1893年

湖畔


久米 桂一郎:洋画家。 1884年から工部美術学校出身の藤雅三に洋画の手ほどきを受け,86年に渡仏して R.コランに師事。同地で黒田清輝と知合い,終生変らぬ親交を重ねた。 93年に帰国,翌年黒田とともに天真道場を創立。また東京美術学校で後進の指導に尽し,さらに白馬会創立 (1896) に参加。また文展審査員をもつとめ,コラン風の明るい画風を広めた。中期以後は制作から遠ざかり,もっぱら美術行政家および教育家として活躍。東京,目黒に久米美術館がある。主要作品『裸婦』 (90,東京国立博物館) ,『清水秋景図』 (93) ,『姉の像』 (93) 。

裸婦

清水秋景図


和田 英作:洋画家。 1891年曾山幸彦,原田直次郎,のちに黒田清輝に師事。 95年第4回内国勧業博覧会に出品した『海辺の早春』が2等妙技賞を受賞し,世に認められた。 96年東京美術学校助教授に推されたが翌年辞職し,学生として同校に編入し5ヵ月後に卒業。 99年渡欧して,パリでは R.コランに師事し 1903年帰国。母校教授,32年から校長をつとめた。文展や白馬会に,外光派の流れをくむ堅実で技巧的な官学風の作品を出品。また帝室技芸員,帝国芸術院会員となり,43年文化勲章受章,51年文化功労者,日本芸術院会員。主要作品は『渡頭の夕暮』 (1897,東京芸術大学) ,『こだま』 (1902) ,『おうな』 (08,東京国立近代美術館) 。

渡頭の夕暮
東京藝術大学大学美術館蔵

おうな
東京国立近代美術館蔵


岡田 三郎助:洋画家。鍋島藩士石尾孝基の三男で,1887年岡田家の養子となった。百武兼行の作品に出会って洋画家を志し,曾山幸彦に師事。次いで同郷の久米桂一郎より黒田清輝に紹介され,その指導を受けた。 95年第4回内国勧業博覧会で『初冬晩暉』が3等賞を獲得。翌年東京美術学校助教授となり白馬会の創立にも参加。 97年渡仏して R.コランに師事。 1902年帰国後は再び東京美術学校の教壇に立ち,また 12年藤島武二と本郷絵画研究所を設立した。 30年文部省の命でヨーロッパの美術,工芸を視察。画風は繊細な雅趣に富み,人物画,風景画を得意とした。文展の中心として活躍し,文展審査員,帝国美術院会員,帝室技芸員をつとめ,37年文化勲章を受章。主要作品『某夫人の肖像』 (1907,ブリヂスチン美術館) ,『水浴の前』 (16,同) ,『ヨネ桃の林』 (16) ,『あやめの衣』 (27,福富太郎コレクション) ,『婦人半身像』 (36,東京国立近代美術館) 。

水浴の前

あやめの衣
ポーラ美術館


藤島 武二:洋画家。鹿児島市生れ。初め川端玉章らに日本画を学んだが,1890年洋画に転じて曾山幸彦,松岡寿らに師事し,明治美術会に発表して認められた。1896年東京美術学校西洋画科新設に際し黒田清輝の推薦で助教授となり,同年白馬会結成に参加。1905年―1910年パリ,ローマに留学し,1912年には岡田三郎助と本郷絵画研究所を設立した。作品は文展に発表し,日本的な情感を込めた日本的油絵の境地を開拓,1914年文展,1919年帝展審査員に推された。1937年第1回文化勲章。代表作《チョチャラ》《黒扇》など。著書に《芸術のエスプリ》。

チョチャラ
ブリヂストン美術館

黒扇
ブリヂストン美術館


青木 繁:洋画家。高等小学校で坂本繁二郎と同級。初め森三美(もりみよし)に洋画を学び,1899年久留米中学明善校を中退後上京し,不同舎で小山正太郎に師事。翌 1900年東京美術学校西洋画科選科に入学し,1904年卒業。在学中から白馬会に出品し,1903年第8回展で『黄泉比良坂(よもつひらさか)』(1903)その他によって,白馬賞を受賞。翌 1904年の第9回展では『海の幸』(1904,国指定重要文化財)が絶賛を受けた。また 1907年東京府勧業博覧会で 3等賞となった『わだつみのいろこの宮』(1907,同)のほか,『大穴牟知命(おおなむちのみこと)』(1905),『日本武尊(やまとたけるのみこと)』(1906)など古代神話に取材した作品を多く制作し,明治のロマン的風潮を代表した。しかし画壇での評価は必ずしも高くはなく,実家の経済的破綻,恋人との別離など不遇が重なり,1907年の帰郷後,九州を放浪の末に肺を病み,貧窮のうちに 28歳で早世した。

海の幸
1904年、重要文化財、ブリヂストン美術館蔵

日本武尊